1.衝撃の仮面ライダーキック
1972年、創部3年目の清陵サッカー部。4月後半頃の日曜日に東海第三高校との練習試合。スコアは、清陵18 – 0東海。
「スゲーな、この部は!」 と衝撃を受けた新入生の1人が筆者でした。右からのクロスを仮面ライダーキックでゴールに突き刺すプレイを見て、日本代表並みの天才たちだ、と、その時は思ったのでした。本当に仮面ライダーキックに見えたのですが、腰くらいの高さへ飛んできたクロスを、空中に飛びながら高さを合わせて、右脚のボレーで決めるというかなり高い技術を必要としたシュートです。因みに、仮面ライダーの正体はSさん、またの名をUさんとおっしゃいました。
その頃のサッカーの部活は高校ごとのレベルの差が大きく、たまたま、その頃の東海はサッカー部を作ったばかりの弱小チームでしたから、清陵が18対0でも全然不思議ではなかったという状況でもありました。
2.清陵サッカー部創設
1970年に清陵サッカー部は創設されました。筆者の2学年先輩方の時と聞いています。1972年に我々3期生が入学するまでの2年間でどのくらいの戦績があったか、筆者のもとに記録は残っていませんが、南信大会を突破しても県大会では勝てなかった事は確かなはずです。
当時の清陵はと言えば、南信大会では上位レベルでしたが、長野県全体では、全然ひよっこで、松本や上田などの高校には歯が立ちませんでした。
当時の清陵サッカー部は「県大会で1勝する」という事を目標に掲げていたくらいですから、いかに地域によってレベル差が大きかったかが窺い知れます。
それは、全国的に部活のサッカーがまだ一般化していなかった事が背景にあります。野球は部活として広く普及しており、甲子園という歴史もあって全国区の部活でしたが、サッカーはまだまだ普及しておらず、地域格差が大きい種目でした。静岡県などは早くからサッカーが普及していましたが、そうでない県との差は大きく、長野県も普及が遅れている地方でした。因みに、近隣で言えば、韮崎は進んでいて、中田英寿なども韮崎高校から輩出されています。
また、中学でのサッカーのクラブ活動もようやく始まったかという頃で、我々が清陵に入学する前年の1971年に諏訪、茅野、原、富士見エリアで行った大会では、上諏訪中学、永明中学、長峰中学、富士見南中学の4校だけがエントリーしていました。筆者の上諏訪中学では、その年に初めてサッカー部を作り、3ヶ月しか練習していないのに、すぐ地区大会に出場した状態でした。
その大会で得点をあげるなど目立った活躍をしていた選手の殆どは清陵へ進み、そのまま清陵サッカー部へ入部しました。入部してすぐ、「おめえ、あん時の試合で点取ったやつずら」みたいな話をお互いにした事を思い出します。その期待の新人たちは、永明のO君、長峰のG君、富士見南のS君、そして筆者でした。因みに、当時は、ずらが公用語でした(笑)
3年は夏には引退ですから、一緒にプレイさせて貰った期間はほんの数ヶ月でしたが、仮面ライダーキックの皆さんですから、先輩方の事は鮮明に覚えています。初代キャプテンのMさんは遠征試合の休憩時間、後輩の我々にコーラをくださったりして、いい人だなあと思いましたね。
3.日本のサッカー
Jリーグがスタートしたのが1993年で、ワールドカップ初出場が1998年。それ以降のサッカー人気は多くの方々の記憶に新しいところだと思いますが、それまでの日本サッカーは、野球全盛の時期にあって、全然市民権を得られていないような状況でした。
清陵サッカー部の創設が1970年ですから、最初は認知度も低く、何かと苦労した時期かと思います。
当時は現在のJリーグのように毎試合全国テレビ中継される時代ではなく、NHK教育テレビ などで、天皇杯や優勝争いの一部試合が放送される程度でしたが、1968年のメキシコオリンピックで日本が3位銅メダル獲得という歴史的な快挙があって、サッカーファンもそれなりにはいました。筆者もその一人で、小学生か中学生という時期でしたが、時々放映されるテレビ中継を観て、ワクワクしたのを覚えています。
メキシコ五輪の得点王に輝いた釜本選手が在籍したヤンマー(現在のセレッソ大阪)などは人気チームで、東洋工業 (現在のサンフレッチェ広島、後に森保一監督を輩出)との対戦は、1960〜80年代の日本サッカーリーグ(JSL)を代表する名カードでした。
4.清陵サッカーグラウンド
今でこそ、大きなグラウンドがあって、サッカーも野球もできるという学校が多くなっていますが、当時、清陵には大きなグラウンドはなく、ヘンテコな先細り型の校庭が我々のサッカーグラウンドでした。北側は、高校のサッカーコートの大きさ規定にある、最低でも必要な45m以上がぎりぎり取れるくらいなのですが、南側は先細っていて、ゴールラインは30mほど?しかありませんでした。普通のスローインでもゴール前へのセンタリングになってしまう距離です。
それ故に、南側へ攻撃する時は、スローインを得るだけで急激に得点のチャンスがやってくるという変なサッカーでした。当時の校庭を知る皆さんは、体育の授業でもサッカーをやった事があるでしょうから、そんな記憶もお持ちかも知れません。因みに、その奥には時々誰かがぶら下がっている鉄棒がありましたね。
東の山側ですが、コートが狭いためか、通常はタッチラインの白線を引かず、石垣そのものが境界線となっていて、石にあたったらタッチラインを出たという判定だったと思います。
練習試合の時だけは白線を引くので、更に狭いコートになったように記憶しています。コートが規定通りの大きさに取れないため、公式戦は清陵では行われませんでした。他校のグラウンドでサッカーをすると、とても広く感じたものです。諏訪エリアでは、岡谷工業高校に広いサッカーグラウンドがあり、そこで練習試合をさせて貰った事もありました。
そんな清陵グラウンドではありましたが、当時、清陵に野球部はなく、サッカー部が校庭をほぼ全部使わせて貰っていました。有り難い事でした。(因みに、野球部は我々が在校している間に産声を上げました。その野球部創設の歴史は同級生のK君が記事にしていますので、そちらを参照くだされば幸いです)
西側(諏訪湖側)の一部は陸上部(時々スケート部)と共用していたので、サッカーコートの中に砂場があったりしました。因みに、ある日の他校との練習試合の時、筆者はその日、左のウィングポジションだったのですが、攻め上がる時に砂場に足を取られてひっくり返ってしまい、応援してくれていた校友から失笑をもらうというカッコ悪い姿を演じた事もありました。笑い話ですが、当時はそうした環境が当たり前の時代でした。
5.清陵祭
大好きな清陵祭が近づくと、グラウンドのど真ん中にファイアーストームの櫓が建てられます。サッカー部の活動だけに関して言えば、ちょっと困った事になります。試合の時には、櫓を避けてボールを運ばなくてはなりません。公式戦は行われないので、それは問題ないのですが、サッカー部には伝統のOB戦というのがあって、毎年、清陵祭の期間中に現役生対部活を引退した3年のOB を中心としたチームで試合を行いました。卒業生のOBもいたように思います。
この時、特にややこしいのが、堂々と聳え立つファイアーストームです。みな、それを避けてパスを出すのですが、時には櫓のおかげで、ボールが見えず、パスが通ったり通らなかったり・・・。
グラウンドが変な形をしているのと相まって、普通のサッカーコートで試合をしている人から見れば、何だこれ?的な状態でゲームを進めるのでした。しかしながら、それはそれで、おかしな状況に馴れてしまうもので、OB戦は毎年、面白いゲームでした。
我々の代が卒業した後、OB戦がどうなったかについては、後輩の皆さんが書き足してくれるでしょう。
6.全国など夢の夢であった
当時、全国へ行っていたのは、松本県ヶ丘高校でした。松本地区は全般にレベルが高く、深志や松本工業にも全然歯が立ちませんでした。そもそも、我々の代の目標も、先輩たちにならって県大会で1勝する、という事でしたが、県大会で勝つ事はありませんでした。一度だけ深志相手に得点のチャンスが巡ってきたのですが、うわ、初めて松本の高校から得点できるかもという高揚感から、ちょっと焦って打ったフリーのシュートはふけてしまい、無情にも空高く飛んでいきました(泣)
それでも、南信大会では、結構強かったです。記録が残っていないのが残念ですが、よく対戦した相手は箕輪工業、上伊那農業、駒ヶ根工業高校などでした。大体勝っていたと記憶しています。インターハイ予選が5月くらいにあり、秋にかけて新人戦がありました。その中で目立った活躍をした選手は長野県の国体チームに推薦される事もあり、同期のS君は我々のチームで唯一国体への参加を推薦された選手です。精度の高い彼のクロスは誰がシュートしてもうまくいくというようなもので、彼のおかげで何度も得点させて貰った事が思い出されます。
7.清陵らしさの部活
自身がサッカー部で活動したのは、ほんの2年と数ヶ月程度の期間でしたが、そこには様々な思い出が残っています。一つ上も二つ上も、先輩たちが本当にいい人たちだった事、試合で勝ったり負けたりはありましたが、先輩も後輩も一丸となって戦った事、部室が臭かった事(笑)などなど、思い出せば、きりがありません。結局サッカーが好きで、なんだかんだ一生懸命だった仲間たちとの思い出です。
とりわけ、創部以来、先輩たちが作ってくれていた自由で楽しくて面白い部活の雰囲気は、後輩の代へも繋がっていたのではないかと思います。それは、自主独立の精神、年齢の差があっても一人一人をリスペクトする文化、が最初から備わっていたからではないでしょうか。学年に関係なく人としては平等だという共通理解の中で、誰一人として高圧的な態度を取る先輩はいませんでしたし、同学年内もしかりです。それゆえに、部活内での人間関係に悩むような場面は見た事がありません。ましてや、イジメのような要素はどこにも無かったと思います。
一つ上の先輩とはとても仲良くさせて貰いましたし、創部してくれた二つ上の先輩方からもとても良くして貰いました。当然ながら、我々の代も後輩に対しては自然と同じように接していました。
振り返ってみると、これらの自由闊達で、先輩後輩の垣根がない部活の雰囲気は、おおよそどの部活も同様だったと思います。その頃の清陵の校風そのものが、確固たる土台になっていたのでしょう。
あの素晴らしい校風はどのように築かれたのか。当時は当たり前に享受していましたが、振り返ってみると、「自反而縮雖千萬人吾往矣」の崇高な精神のもと、長い歴史の中で培われてきたものなのではないかと思います。その校風の中で、学び、サッカー部で活動し、友人たちと高校時代という多感な時期を共有できた事は、かけがえのない宝物です。
8.女子マネ
「もしドラ」というとても面白い青春小説がありましたが、ご存知でしょうか。正確には「もし高校野球の女子マネージャーがドラッカーの『マネジメント』を読んだら」という題名です。AKBの前田敦子さんが主演で映画化もされました。
女子マネがドラッカー先生のマネジメントを勉強してそれをチーム内に応用し、何と弱小野球部を甲子園へと導いていくという夢物語ですが、男子の部活に女子マネというのは、小説やドラマの定番ですね。そして、キュンの物語が多いです(笑)
さて、当時の清陵サッカー部に、女子マネはいたのか?
一度だけ、その状況になりかけた事がありました。仮面ライダーの3年は引退し、2年生が主力になって、2代目キャプテンを2トップフォワードのKさんが務めていた2学期頃の事です。ある日曜日、変形清陵グラウンドで岡工か岡南あたりと練習試合がありました。そこには、何と、光り輝く2年生女子!の応援団がいらっしゃっていたのです。それまで、清陵グラウンドで行われたどんな試合も、ましてや伊那方面や松本方面へ遠征する公式戦も、観戦者など見たためしがありませんでしたので、それはそれは驚きの光景でした。
当時の清陵には応援団などありませんでしたし、男子ですら試合を見に来てくれる事など
ごくごく稀でした。しかも、当時は土ぼこりにまみれて、むさ苦しい印象の男子サッカー部です。女子生徒が1割程度しかいない当時、麗しの女子が応援に来てくれる事など、想像もできませんでした。
ところがです。どの先輩がどのようにして女子をお呼びになったのか定かではありませんが、お二人の2年生女子が観戦に来てくれていました。ま、応援団と言っても2名ですが、当時の新記録です(笑)
そして、事もあろうに、その次の試合には、はちみつに漬けたレモンを携えて、またお二人が伊那方面の会場に登場されたのです。
我々1年生は全く興味の対象外だったでしょうが、先輩2年生の中には、まあイケメンもいたと言えばいたので(笑)、そのような方々に惹かれてという事もあったかも知れません。
部内では、清陵運動部初の女子マネが誕生するのでは?みたいに密かな盛り上がりを見せていました。知る限りでは、他の部活でも、女子マネなどという話は聞いた事がありません。この調子なら我々1年の代も女子と仲良くしておかねば、とどれだけの部員が思った事か・・・。
2年生女子様たちは、どういう事情か、その後の試合にはいらっしゃらなくなったと記憶しております。そもそも清陵では、勉学が優先でしたので、試合を観戦に行ったり、ましてや、推しを見つけて沼るなどという風土は一切なく、お忙しかったのだと思います。
翌年、我々の代が2年で主力になった時には、女子マネがいたらなぁ的な幻想は、儚くも消えてしまっていました(涙)。
しかしながら、誰かが応援に来て貰えるという事はどれほど励みになるか、実感した2試合でした。とりわけ、当時の青臭い男子チームにとっては、女子応援団の存在は特筆すべきことだったのです。思い出しながら、改めて感謝の気持ちがこみ上げてきました(笑)。あの時のお二人がお元気でいられる事を願っています。
9.運動部の香しい匂ひ
サッカーの部室は一番南の端っこにありました。校舎から遠く、グラウンドに近いところです。理に適っています。あ、申し訳ありません。入学した最初の数週間は学友会館にあった筈です。しかし、そこでの記憶は非常に限定的です。火事の後、直ぐに新しい部室棟ができ、自分たちの代は部室と言えば、その新しい建物の部室でした。まあ、建物と言ってもプレハブ小屋的な部屋が並んでいるというものでしたが。それでも、我々にとってはありがたい部屋で、ボールや備品や、ユニフォーム、個人のウエアなどが色々収納されていました。
問題であったのは、自主独立のわりに、清掃や洗濯の精神が著しく欠落していたために、全てが香ばしい香りを匂わせていた事です。あのスゴい匂ひは忘れる事ができません。自主独立であれば掃除洗濯しようよ、と今になっては思いますが、当時は青二才過ぎて、匂ひを我慢しさえすれば良いのだと、皆が信じて疑わない日々でした。その伝統は先輩から受け継いでしまったもので、どういう事か誰も変えようとしないのでした。
基本的な成分は、若者特有の汗の匂ひです。酸っぱい匂ひです(苦笑)。今の歳になって、自分からあの汗の匂ひを発してみよ、と言われても、とても出す事のできない酸っぱい匂ひです(苦笑)。
この匂ひはサッカー部だけの専売特許であろうはずもなく、どの運動部も一様に発していたと記憶しています。バスケもバレーもテニスも皆同様に匂っていたはずです。しかしながら、とりわけスゴかったのは、鼻の超近距離で匂ってくる恐ろしい物体を日々まとう部活でした。そうです、剣道部です。防具の面です。
筆者は、他のスポーツもやってみたい気持ちがあり、親しい友人がいた部活へ時々出向いては、一緒に練習させて貰う事がありました。自分の部活が終わった後とか、練習のない日や、引退してからなど、暇さえあれば顔を出していました。
バスケのシュートなどもよく教えてもらいましたが、いちばん頻繁に勉強させて貰ったのは剣道部で、しょっちゅう稽古をつけてもらっていました。
最初は冬場だったと思うので、それ程麗しい匂ひは感じなかったのですが、夏に近づくにつれて、おっ、と思うようになり、更に暑くなってくると、おっ、ではなく、うっ、となって、果ては、つ~ん、という擬音に変わっていきました。脳天を貫くような匂ひでした。あれは、洗っていない防具を実際にかぶった人にしか分からないかも知れません(笑)。
稽古では、匂ひだけでなく、本当に脳天を貫かれる面を何度も取られるのですが、素人ながら小細工は覚えて、ちゃんと部活やってる剣士から、デゴテなる技で一本とれるような事もありました。
さて、匂ひの件ですが、サッカー部は若者特有の汗の匂ひに加えて、土埃の匂ひを同時に連れ込んでしまっていました。そのブレンドはこれまた想像を絶するほどの麗しい匂ひで、よくもあの部室で過ごしていたものだと感心します。たまに授業をサボって早弁するような時も、あの部室でごはんを食べていたのですから、いかに鼻が麻痺していたのかと思います(笑)
10.部室棟
我々が入学した1972年に新設された部室棟ですが、長屋のようで、ご近所さんたちととても仲が良かったと思います。
サッカー部が一番端っこで、その他に陸上部兼スケート部、剣道部、バドミントン部、バスケ部、バレー部、テニス部、が入居していたと思います。かつては、その並び順などを正確に覚えていたのですが、卒業後50年も経つと、色々な事が記憶定かではありません。柔道部と卓球部は練習場が別棟にありましたので、長屋にはいません。長屋にいたのは、グラウンド、体育館、中庭を使う運動部だったはずです。
長屋の住人たちとは自然と親しくなり、卒業後も親交を深めるような友人が沢山できました。
部室のドアは、すりガラスの引き戸で、何かあるたびに、いとも簡単に割れました。昨今のガラスに比べると恐ろしく強度が低かったと思います。何故、それ程によく割れるすりガラスの扉にしたのか謎です。すりガラスなので、中が見える訳でもないのです。ほんの少し光を通す程度。
まるっきり見えないのはダメよ、でも丸見えもダメね、となった結果が、あのすりガラスだったのでしょうか。
いずれにしても、何故かしょっちゅう割れました(笑)。でも、有り難い事に、2~3日のうちには新しいガラスが入っていて、何事もなかったかのように、また元の部室の姿に戻るのです。マジックのように。
ガラス屋さんは繁盛したのではないでしょうか。
11.今でもふと思い出す記憶
1年生か2年生の終わり、もう記憶もあやふやになってしまいましたが、ようやく少しだけ暖かくなった春休みの日の午後でした。自宅にずっといるのにも飽き足らなくなったのだと思います。何かしたくて仕方なく、心のよりどころだった清陵へ自然と足が向かいました。
たった一人のグラウンドで、誰もいないゴールにPKを蹴る。一人でゴールに行ってボールを拾い、またボールを置いて、PKを蹴る。何度、繰り返したでしょうか。夕方に近づくと、寒さが訪れ、西日に目を細めながら、早く4月になれ、と思っていました。
あの日の事は、何か甘く切ないような記憶として、今でも時々思い出します。
12.前後を書き足して頂ければ
ここまでの記事は1972年から1974年のお話です。それ以前の部活創始期のお話と我々以降の歴史については、完全に分かっていないところもありますし、この記事自体に事実違い、記憶違いもあるかもしれません。サッカー部OBの皆さんが書き足して投稿してくれる事を願っています。そうして、様々な事が忘却の彼方へ消えてしまう前に、清陵サッカー部の歴史が共有できる事を願っています。
2026年6月 伊藤高光(78)